国分寺の鐘                         

 下記の伝承記録はある程度本当にあった話が尾ひれがついて伝わっているものと考えられます。常陸国分寺の雄鐘、雌鐘の立派な釣鐘(500kg)のうち片方が盗まれてしまったのです。残った1つも火災で焼失しています。今も伝わるお話を下記に転記します。(石岡駅にある壁画はこちら

834年(承和元年)の3月のある真夜中、鹿島灘旭の子生(こなじ)浜の沖合で、目映いばかりの金色の霊光が、天に向かって光り輝いた。渦潮を照らし、東海の深い闇を燦々と白ばめた光りに驚かされたのは、浜に住む人たちばかりではなかった。潮路遥かに隔てた鹿嶋高天原(たかまがはら)の森に眠る烏(からす)も時ならぬ東天の明かりに羽ばたきながら、異様な声を立てて、ざわめいた。
 浜の住人たちは、『これは何かのご来迎(らいこう)の、お啓示に違いない。』と、おそれをなし、砂浜にひれ伏し、手を合わせて拝んだ。するとその夜、浜の住人の夢枕に錫杖を持ち白衣まとった銀髯の僧形が現れ、『里の人々よ、今宵の光りは、龍宮国王より、和国帝王の勅願所、常陸府中国分寺へ献上する雌雄二口の霊鐘が発したものである。諸々の災厄を払い、国民が安穏を得られるよう、贈られたものであるから、皆で力を合わせ、早く府中国分寺へ届けなさい。』と告げ、姿を消した。
 『なんという有り難いご瑞光だろう。』浜の住人たちは、夜明けを待って、舟で沖合に漕ぎ出してみると、鏡のような朝凪の海面に二つの鐘が黒い影を浮かべていた。一行は舟を近づけ、引き上げようとしたが、鐘は岩盤のごとく水面に貼り付いて、びくとも動かなかった。そのとき、昨晩夢枕に立った僧形が現れ、呪文を唱えながら珊瑚の念珠を鐘の龍頭に投げ付けて、スーッと姿を消した。すると二つの鐘は、自ら波間にゆらゆらと浮かび上がったので、引き上げることができた。
 鱗状の青錆に包まれた鐘本体を、龍頭からしたたり落ちる海水の滴は、異様な輝きを発し、あたかも泳いでいた龍が、陸に這い上がるかのような荘厳な容姿に、人々は皆声を潜め、手足は震えていた。 浜一番の清浄の地、七日ケ原の仮の場所に、鐘を安置したとき、人々はほっと胸をなでおろしたと云う。『海神様のお使いだ。』
 群がる見物人は皆、しめ縄の外にひれ伏し、だれも鐘を直視できる者はいなかった。 やがて二つの鐘は、浜の人々の信心と、精魂をこめて造り上げられた牢固な臼車に載せられ、大地を震わせ、大勢の浜の人々の手に引かれ、霞たなびく陸路を西へ向かった。
 春うららかな日の昼下がり、二つの鐘は府中国分寺に運び入れられた。旭村子生浜付近には、現在でも七日ケ原、車作の地名が残り、鐘が通過した所には、八日ケ堤、また車軸が、鐘の重さに耐え兼ねて折れた所には、こみ折れ橋等の地名が残っている。 

 仏教の興隆目覚ましい平安の世、常陸国分寺の威勢は満開の花のごとく、その盛りを競い、朝日、夕日に輝く堂塔伽藍(どうとうがらん)は地方人の目には豪華絢爛の極みであった。毎日6時から勤行する梵唄鉦聲(ぼんばいしょうせい)と、たなびく香煙は、この世の極楽浄土であった。浜の人々にとって、なにもかもが驚きであった。龍宮城もこのような所であろうかなどと想像していると、やがて国史の出迎えを受け、法堂の広間に招かれた。一行は茶菓珍膳の厚いもてなしを受け、多くの布施財物を戴いた。思わぬ霊鐘の入貢に、国分寺側の歓びは尋常ではなかった。間もなく盛大な献鐘式が行われ、高い丹(に)塗りの鐘楼に二つの霊鐘が吊るされた。その崇厳さは言葉にならない程で、瑠璃色に晴れ渡った天空に紫の雲が開けて、花びらのごとく降り注いだ。諸々の仏の化身は、幻のごとく鐘の上に現れては『この鐘の音は、常に四天王の威力を伝えて、一切衆生、三界の苦悩を断ち、必ず国土を守りぬく』と宣言し、再び鐘の上に消えていった。僧侶たちはこの霊象を敬い慎んだ。合掌、九拝し、護国品三部大経五十巻を7回轉読(てんどく)し、勝業成就を誓願した。紫の衣をまとった見事な容姿の沙門の手に撞木が握られ、始めて霊鐘が撞(つ)き鳴らされた時は、雷鳴の如く山河を震わせ、その余韻は遠く幽玄の響きを伝え、人々の邪心を打ち消していった。その音色のすばらしさに、身をすくませぬ者はいなかった。この鐘の音が国分寺の森を揺るがし、朝夕響き渡るようになってから、不思議にも国内にはびこった罪科はなくなり、悪疫も除かれ五穀も豊かに実るようになった。常陸国民は永年の苦悩から解き放たれたのだった。人々は天恩の有り難さに感謝し、喜びの涙は国内の草木にまで浸透した。

 その後、長い歳月を経て、徳川の世となり、仏教はかつての活気を失って、国分寺も衰退していった。霊鐘は、年に一度4月8日の薬師如来の縁日に撞かれるのみとなった。寛永16年の秋、城下の水田がしばしば水害に見舞われるため、時の府中領主、皆川山城守の令により表川(恋瀬川)両岸に堤防が築かれる事になった。国分寺の鐘の音は、遠くまでその音が響き渡るということで、長い距離を持つ建設現場に、時を告げるために役立つという理由から、やがて町役人の手によって雌鐘が、恋瀬川沿いに建てられた普請小屋の大柱へと移されて行った。それから毎日、筑波山の麓にまで、仕事の開始、終了を伝える鐘の音が響き渡った。人足のなかには、『時世時節じゃ河原で暮らす百姓、釣鐘、土かつぎ』と唄を唄って、この霊鐘の在り方を嘆く者もあったが、『あの鐘は普通じゃない、南蛮の黄金が混じっている。金にしたら大した値打ちだ... 』と、うわさする者も多かった。
 このころ、府中の西2里、鬼越峠の山奥に巣食う盗賊がいた。昼間は洞窟でどぶろくを食らい、日が暮れるころ風のごとく街に出没して、物盗り、追いはぎ、誘拐等、悪事の限りを尽くしていた。『昨夜は彼処の土蔵が破られた。』『今夜はここの娘がさらわれた。』等と、毎日のように伝わって来る悪い知らせに、財を持つ人達は、毎夜枕を高くして眠れなかった。公儀の捜索は厳しくなり、捕手は血眼になって、これを追いつめていた。
 ある夜の、水面が眠る九ツ時、この盗賊が恋瀬川に現れ、河原に吊るしてあった雌鐘を外して舟に積み込み、棹(さお)音も立てずに川下の闇の中へと消えて行った。ヨシの間に眠る水鳥を驚かせながら、高浜の河岸を過ぎ、八木の鼻を抜けて、舟は開けた海面に達した。『ここまで来れば、もう大丈夫、しめたものだ。』と、盗賊は独り言を言いながら、微弱な星明かりを通して、盗んできた雌鐘を見ると、あたかも魔性がうずくまっているかのような物凄い圧迫感を感じ身を震わせた。一つ、二つ見えていた両岸の燈火も、遥か遠くなり、舟はいよいよ霞ケ浦の難所、三ッ又沖(歩崎の沖合い)にさしかかった。この時、一点にわかに曇ったかと思うと、筑波山の方向から凄まじい風が吹き始めた。間もなく波は高さを増し、波頭が砕け始め、舟はひどく揺れだした。『大変な時化(しけ)になったぞ。』賊は一心に櫓を漕ぎ始めたが、舟は一向に先へは進まず、後ずさりを始めた。『不思議だなー....』盗賊は、薄気味悪くなって夢中で漕ぎ出したが、雨は強く降りだし、風は益々強まり暴風と化した。舷に叩きつける大波で、舟はいよいよ転覆しそうになってきた。その時、突然雌鐘が唸りを生じ、『府中国分寺恋しやガーン...、雄鐘恋しやガーン...』と恐ろしい音色を震わせて鳴り渡った。盗賊は驚き船底に伏した。その途端、目が眩むような稲光とともに、天地を引き裂くような雷鳴が轟きだした。『あー、とうとう水神様のお怒りに触れたのだ....。』盗賊は、豪雨の中ゆっくり立ち上がると雌鐘を抱き上げ、荒れ狂う波の中に投げ込んだ。すると不思議なことに、風雨は、刻一刻と静かになり、波もおさまってきた。暗雲はからりと晴れ、元の穏やかな海面に戻った。盗賊は舟の上で一時、気絶していたが、やがて息を吹き返し、当たりを見渡した、嵐の去った後の海の清らかさと、天上に瞬く星の光明を見上げて、思わず手を合わせた。その後舟は流され岸にたどり着いた。盗賊は今までの悪行を悔い改め、鐘の精霊を弔って菩提を念じ、名を善鐘と改めて鹿島郡のある寺の黒衣の僧となった。

 一方、三ッ又沖に沈んだ雌鐘は、水戸光圀公の領内巡礼の際、この話を聞き、『それは誠に惜しい鐘だ。』と言って、家来に引き上げを命じた。女性の髪の毛で太い毛綱を編ませ、引き上げを試みたが、鐘は、水面に姿を見せた途端、綱の結び目がプツリと切れ、再び水底に沈んでいった。その沈む姿は、悪魔が振り乱した蛇髪のように、鐘の胴に生えた水草が恐ろしい形相を示し、そのあまりもの恐ろしさに、光圀公は二度と鐘を引き上げようなどと言わなくなったという。水が透明だった昭和の初期頃までは、天気の良い凪いだ日には、鐘に生えた水草が、青白い水を透し、龍が泳いでいるように見えたという。そして雌鐘は、毎日米粒一つ分の幅だけ府中国分寺の方向へ転がっているが、洪水や嵐の都度、元の場所へ押し戻され、府中へは近付いて来られない。それを呪う龍頭の恨みが、水面に渦を巻いて流れ、往来する船は、この付近を避けて通っている。
今もなお、波打った水面が漠然と広がる三ッ又沖で、天候が悪変する前などに、また元の場所へ押し戻される悲しみを含めてか『府中国分寺−雄鐘恋しや...、ガーン』と鳴り渡り、その音は、北風の時でさえ、府中の方へと響いていくという。

国土交通省霞ヶ浦工事事務所監修、社団法人霞ヶ浦市民協会発行の文を転載

雄鐘は、東の鐘楼が壊れたため、仁王門に吊っておいたが、明治41年、町内失火のため、雄鐘は仁王門とともに消失した。溶解した雄鐘の地金で、霊鐘の分身である雄鐘の模型二百口を謹製し頒布された。

 雌鐘を失って三世紀半以上の年月を経て、今では雌雄両鐘とも府中にはない。いにしえの法音は、今は空しく松風に聞くのみであるが、不滅の鐘魂は、霞ケ浦沿岸の人々の心の中に脈々と息付き、霊妙な神話として、語り継がれている。

  在りし日の雄鐘のプロフィール

高さ169cm 直径106.1cm 厚さ16.7cm 重量507kg

今では、この伝説を基にした最中が石岡名産として作られている(中町の高野菓子店「釣鐘最中)。 

国分寺の鐘が盗まれたとする話はこの地方では有名で霞ヶ浦まわりの各地でいくつもの言い伝えが残されている。その中には鐘を盗んだのは「弁慶」であるとの説がまことしやかに伝わっているのも面白い。石岡駅のホームにある壁面のモザイク画にも描かれているのである(詳細はこちら)。しかし、弁慶が盗んだとするには時代が違うようである。実はこの鐘は江戸時代まで存在したようで、府中(石岡)藩主であった皆川氏が恋瀬川の堤防工事の際にこの鐘を合図として使ったのである。この時に鐘が置き去りにされたために盗まれたのが真相のようである。また、この鐘は仁明天皇の時百済より船載され鉾田市の子生(こなじ)の浜で陸揚げされ国府まで運んだと言われていますが、上に書いたような話にかわっており、この鐘を国府まで運んだのは「弁慶」であるとの伝説が鉾田市沢尻地区(大洗の南側海岸沿い)に残されている。それによれば「平安時代の終わりごろ、石岡国分寺の僧が鐘を造るため諸国に寄付を求めて歩いたとき、ある池のほとりで白蛇が姫の姿であらわれ男女二つの鐘を松の木にかけて姿を消したという。その鐘の運搬を弁慶が引き受けた。七日目に通ったのが上釜の七日原、八日目に通ったのが上太田の八日堤など、今でも伝説が地名で残っている」となっている。また、隣町の千代田町(現かすみがうら市)には、国分寺の鐘を製作したという伝承も残っており、昔話として語り継がれているのも面白いですね。  

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