▼常陸国分寺▼ 石岡市府中5-1

歴史の里石岡ロマン紀行


石岡駅から北北西に歩いて約10分程のところに「常陸国分寺」はある。国分寺とは、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺とともに建立を命じた寺院である。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺である。各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれた。東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。ここ常陸国分寺は戦国時代に府中城が佐竹氏に攻められその時消失した。元禄時代になり本堂が再建されたが、これも明治41年の大火で失われた。現在のの本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したものである。下記の写真は現在の国分寺入り口部に残る中門跡である。

国分寺は護国之寺であり、大和朝廷を守る祈願の寺であり、一般の寺とは違い庶民は中に入れなかったようです。建立後も蝦夷や新羅系民族などにより一時消失したようですが、近くの千手院などの擁護で復興したようです。しかし平将門の乱で焼かれてしまい、その後も権力争いのたびに大火を受けますが、そのたびに復興してきました。春は「花祭り」が行われます。(2007.4.1撮影) 

常陸国分寺跡 (国指定特別史跡)

 所在地:石岡市府中五丁目1番
 指定年月日:昭和27年3月29日

 国分寺・国分尼寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
 国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経一部を安置した七重塔を設け、常住の僧二十名と、最勝王経十部を置いた。寺院の財政は、封戸五十戸、水田十町によってまかなわれた。
 常陸国分寺跡は、昭和五十二年の発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、次いで、昭和五十六年から二次にわたる発掘調査では、各伽藍(主要建造物)の基壇の規模が明らかにされた。特に、金堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
 近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に指定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
 常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。

 平安中期の939)年に、平将門の乱により常陸国府は焼かれ、国分寺も被害にあった。そして1590年、佐竹氏と大掾氏との戦いによる火災により、堂塔はほとんどを失ってしまった。

旧国分寺は中門から金堂に回廊が配置され、北への中心線に金堂、講堂が列び、七重塔が東に離れて位置する伽藍となっていた。 金堂跡(下写真)

 旧国分寺の講堂跡が現国分寺の敷地内の隅にひっそりと残されていました(下写真)。

七重塔の心礎(境内に後に移されたもの)

 七重塔のもとの所在地は不明であるが、国分寺の東の国分町台地東端に伽藍御堂とよばれる地区があり、かって礎石が存在したことからこの地区に塔があったとする説がある。 昭和52年の調査で現本堂の西側に南北約16m、東西約10mの建物の掘り込み跡が発見された。その位置は金堂跡と講堂跡の中央西側にあたり、堅牢な版築が見られることから鐘楼跡と考えられる。(石岡の歴史より抜粋)

昭和27年1月4日、石岡駅から水戸街道に通じる産業道路(120m、幅員11m)開設の第1期工事に着工したが、途中2500貫の大石が工事の進行を妨げ取り払うこととなった。ところがこの石が常陸国分寺の七重塔の塔芯礎であることが確認され、町観光協会により3月中旬から国分寺境内に運ばれた。運搬は重さが10トン以上になるために、泉町の大通りにレールとコロを敷き神楽山というロープ巻き取り機を使い人力で運んだと言う。1日200mで6日かかりの作業となった。この礎石は佐竹氏に攻められ消失した天正18年以降国分寺の金子源兵衛氏宅に置かれ、さらに明治後期に浜平右衛門氏の別荘に庭石として移されたものであったという。「世に出る路傍の石 国分寺七重塔心礎 道路開設で発見」と当時の新聞記事に載ったものである。(写真集 いしおか昭和の肖像より抜粋)

 

市指定・有形文化財
旧千住院山門

818年行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、1253年まで続いたと伝えられる。その後記録が残っていないが1593年に中興されたいわれている。千手院は府中における大寺のひとつで、末寺2ケ寺、門徒21ケ寺など多くの寺が主に府中の町中にあったが、明治の初めにはほとんどが廃寺となってしまった。また千手院も1919年に国分寺と合併して廃寺となった。現在はこの山門のみが残されている。20-30年前にこの山門の修復工事が行われ、この門の建立年号が判明しました。寛保3年(1743)に国分寺の僧侶「深恵」がこの門を建て、24年後の明和4年に弟子の宥恵が屋根を瓦葺きに改めたことが判明し、国分寺の唐門であった可能性もあるとの事です。山門に彫られた彫刻についてはこちらを参照下さい。

本千手院山門の少し手前の右側に旧国分寺の七重塔の礎石が置かれているが、七重塔は当時もっと東側に離れてあったものを境内に礎石を移したものである。

 

市指定・有形文化財
都々一坊扇歌堂

都々一坊扇歌は1804年現常陸太田市磯部に生まれ、病により失明同様になったが、芸の道を志し二十歳で江戸へ行き、寄席芸人として修行を続け、1838年に、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」を工夫して「都々逸節」をつくった。扇歌は、高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで江戸庶民の評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となった。江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先であるここ府中(石岡)に身を寄せていたが1852年48歳で没した。この扇歌堂は昭和8年に町内有志の呼びかけによって建立されたものである。

ここ府中(石岡)に身を寄せていたが1852年48歳で没した。この扇歌堂は昭和8年に町内有志の呼びかけによって建立されたものである。

 

  • 親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
  • たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車(下写真:歌碑)
  • 白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
  • 諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
  • 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の歌)

  • 上は金、下は杭なし吾妻橋 (江戸追放のきっかけとなった川柳)

花祭り(2007.4.8撮影)