▼三昧塚古墳(さんまいずかこふん)▼ 茨城県行方市沖洲467-1

歴史の里石岡ロマン紀行(小美玉・行方編)>


行方市指定文化財(史跡)

 石岡の歴史を紐解いていくと1300年以上前に、この霞ヶ浦周辺に豪族が住んでいたことがわかってきた。石岡の「舟塚山古墳」は東日本第二の大きさとして国の指定を受けた史跡として知られているが、同じ五世紀末〜六世紀初に築造されたここ「三昧塚古墳」を外して考えることは出来ない。舟塚山古墳は霞ヶ浦の海の支配者として、またこちらの三昧塚古墳は陸の支配者としてかなりの力を持った豪族がいたという証拠である。土砂を掘削して大部分が破壊されて、あわてて復元保存に着手したものであるが、舟塚山の副葬品、埋葬品などがかなり無くなってしまったのとは異なり、整備されていくことは自分たちの祖先の歴史を守っていくことで大切なことである。水戸市の「愛宕山古墳」と合わせ3つの古墳が5世紀のこの国の姿を探っていくことができる。

石岡方面から国道355を潮来方面に進むと小美玉市(旧小川町)から行方市(旧玉造町)に入ってすぐ道路沿い左手に古墳公園として目に入る。古墳の上に立つと霞ヶ浦もすぐ近くである。現在は公園として整備され子供をつれた親子連れが遊んでいた。

 古墳の上に出土した石棺の内容が石板に書かれていた。内容は右の説明書を読んで下さい。この石棺は粘板岩製で棺蓋の左右中央に縄をかける突起物があったとされる。年は20歳前後の有力な部族長とみられている。



 現地の説明看板

古三昧塚古墳は、鎌田川流域の沖積低地に築かれた、全長85m、後円部径47m、前方部幅36.5m、後円部高さ6mの規模をもつ(現在の墳丘は半分以上削平)、五世紀後半に築造された前方後円墳である。

 昭和30面築堤用の土砂採取により、古墳の一部が壊されたことにより緊急の発掘調査が実施された。墳丘には、円筒埴輪が三重にめぐり、後円部の中心には、墳直下2.7mに箱式石棺が置かれ、伸展葬の形で遺骸が埋葬されていた。副葬品としては、金銅製冠、金銅垂飾付耳飾、平縁変形四神四獣鏡等があり、ほかにも短甲、鉄鏃(やじり)そして円筒・形象(人物・動物)埴輪など遺物が出土している。

 町では、貴重な文化財である三昧塚古墳を保護保存しようと墳丘部等を買収、郷土学習や歴史的遺産保護活用拠点として整備するため「三昧塚古墳保存整備基本計画」を策定。その後、沖洲地区県営ほ場整備事業の農村環境基盤整備において、墳丘を除いた部分が三昧塚古墳公園として整備され、周掘部一万一千百平方メートルも買収して古墳の前面公有化が実現した。なお、三昧塚古墳保存整備基本計画及び史跡公園の整備に先立ち、古墳の規模、墳丘の構造、周掘の規模など基礎的な資料を得るため、明治大学考古学研究室の協力の下、三昧塚古墳の第二次、第三次発掘調査を実施した。

 勅使塚古墳の出現によって幕を開けた古墳文化は、三昧塚古墳・権現山古墳、そして大日塚古墳と築かれ沖洲古墳群が形成されていった。なかでも霞ヶ浦沿岸地域では群を抜いた規模と豊富な副葬品を持つ三昧塚古墳は、当時の古墳文化を考察する上で重要な遺跡となっている。

平成17年9月 行方市教育委員会

埋葬品などは「茨城県立歴史館」で見ることが出来ます。