▼高浜神社▼ 石岡市大字高浜865番地

<歴史の里石岡ロマン紀行>


石岡の市街より高浜街道を茨城廃寺跡や舟塚山古墳などの高台を霞ヶ浦へ下っていくと高浜の町へ出る。ここから右に三村城跡(三村小学校)の方へまがるT字路かどに古木に囲まれた高浜神社がある。周りには高浜の古くからある味噌・酒蔵まどの趣のある旧家がある。

 この神社では旧暦6月21日に神事、青屋祭が行われている。石岡市総社にも青屋神社が有り毎年風習が受け継がれている。

常陸総社の近くに「青屋神社」がある。こちらを参照下さい。

 

 

 口碑によれば、高浜の地は古代には国府の外港として栄えた。国司は都から着任すると、当国内の大社に報告のため巡拝し、また奉幣祈願をするのがならわしであった。
 国司が鹿島神社に参拝するには、高浜から船で行くのが順路であったが、荒天で出航不能のときは、高浜のなぎさにススキ・マコモ・ヨシなどの青草で仮屋(青屋)をつくり、遥拝したといわれる。
 現在は、本殿・拝殿・石鳥居などがあるが、この社殿は後世に建てられたものであろう。

(昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会)

昔、常陸国府に国司が着任すると高浜より舟で鹿島神宮へ参拝した。悪天候の時は、高浜の渚に茅(かや)などで仮殿を造り、そこから鹿島の方を遥拝(ようはい)した。また石岡市旧市役所前の青屋様が鹿島へ移るときは、中津川で高浜神社からかついできたみこしに石岡からきた青屋様を移して高浜神社にお移り願った。こららのことが恒例となって、毎年6月21日(現在は7月25日)に「青馬の祭り」として続けられた。また高浜神社のカギ元は代々山口太郎左衛門氏が代々つとめたため、高浜で生まれた子供に太郎の名前をつけない慣わしとなった。大祭当日は、霞ヶ浦湖畔の真菰(まこも)を刈り、それを編んで敷物として拝殿前から神殿までの約250mの間に敷き、その上に祭礼者が並ぶのである。祭りが最高潮になると、山から刈り取ったたくさんの薄(すすき)で直径2m程もある大きな輪をつくり、、馬に乗った騎手がこの輪の中を駆け抜けるのである。最後に祭りに参加した人々はこの薄を引き抜いて家に持ち帰り、家内安全・商売繁盛を祈願するのである。また、この日に薄の箸でうどんを食べる習慣が常陸国内で今も続いている。

石岡の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫 (1979年)

また、江戸から明治になる時の戊辰戦争さなかに、山岡鉄舟は、勝海舟と西郷隆盛の会談を高浜神社に斡旋し、成功させた。山岡鉄舟は江戸が戦火に見舞われるのが必死と思われていた時に幕府(徳川慶喜)の命を受け、駿府に迫った西郷隆盛を訪ねその人物を認められ、勝海舟と西郷隆盛の江戸無血開城に活躍しました。しかし開城後も快しとしない旧幕府軍との間に戊辰戦争がおこります。その戊辰戦争中にここ高浜で会談が行なわれたのです。また初代茨城県知事(参事)(わずか1ヶ月)になりました。鉄舟の「高浜神社」と書いた奉納額がこの神社に残されています。(高浜小学校の初代校長は山岡鉄舟の兄・小野古風である。) 鉄舟の15歳で作成した「修身二十則」はこちらのサイトを参照。

石岡の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫 (1979年)

奈良時代の高浜(常陸風土記より)

 郡の西南を流れる 信筑 ( しづく ) の川は、筑波の山に水源を発し、郡内をめぐって、東の高浜の海に注いでゐる。(略)この地は、花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、

 高浜に来寄する浪の沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)

 高浜の下風 ( したかぜ ) さやぐ妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも

(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)

(神話の森 口訳 常陸風土記より)

高浜要害(現:高浜小学校)

 高浜神社の前の高台(高さ20mほど)一体は戦国時代に府中城の要害があったとされる。どのような規模であったのかは定かにはなっていないが、高台より霞ヶ浦を見下ろす位置であり、対岸には三村城(現三村小学校)がある。現在は高浜町学校が建っており、写真の左上に登る道は小学校の入口部となっており、土塁など城跡を思わせる。この高浜要害は府中大掾氏の要害であったと推察されるが、時に記述されたものが見つかっていない。また高台は小学校の敷地から東に続いておりかなり大きなものであったと考えられる。