▼玉清井(たまきよい)▼ 茨城県行方市井上

歴史の里石岡ロマン紀行(小美玉・行方編)>


 石岡方面から355号線を霞ヶ浦大橋を過ぎ、霞ヶ浦に沿って南下します。この辺りはバイパスと旧道が平行して走っていますが、西蓮寺を過ぎると「井上地区」の旧道とバイパスの中間の田んぼの中にこんもりとした茂みが見えます。ここが万葉の頃から伝わるヤマトタケルの伝説がのこる玉清井神社です。 こじんまりした神社ですが、この地方の歴史を考える上で重要な場所であると思います。「橘郷造神社」には弟橘姫が祀られていますが、関係はあまり定かではありません。石岡の総社宮には日本武尊の腰かけ石が置かれ、石岡の恋瀬川の対岸には万葉集に詠われた「志筑の田井」があり、こちらも同じような伝説が残されています。(2010.07.24 記)

まわりは田んぼで囲まれています。森は小さな神社で中に泉(池)があります。今は水の量は少なくなったようです。現地の看板(案内板)は新旧2つありましたが、どちらも玉造町のままでした。

 

たまつくり風土記をたずねて (新しい方の看板)

玉清井は、「常陸風土記」に地名の由来の記録があります。風土記によれば「倭武天皇(やまとたけるのみこと)が槻野(つきの)の清泉においでになり、水辺で手を洗い、玉で井を清められたので、この泉を玉の清井と言う」とのことです。その名の通り井の上地方は水が豊富で、この玉清井をはじめ最近まで水が滾々と湧いていた所がありました。
また、江戸時代に旱魃(かんばつ)が原因で飢饉になった時、村人が力を合わせて泉をため池にし、水を貯え利用しました。そして、江戸の妻恋稲荷の分霊をお迎えして永井戸稲荷神社として祀りました。
この神社の周辺には、暖地性のスタジイやタブノキ・トベラなどの常緑照葉樹が茂って、原生林の面影を残しています。また、清泉付近には湿地を好むナンオキやヨシなどの水生植物が多くみられ、恵まれた環境で植物の種類も豊富です。

玉造町教育委員会

 日本武尊(やまとたけるのみこと)の像を池の真ん中に建てていた。池は旱魃の時に水を貯めるように江戸時代に作られたものとのこと。

    

玉清の井(たまきよのい):古い方の看板

 「常陸風土記」によれば、昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方征伐の途中この地を通り、清泉の湧きでるのを見てこれをすくおうとし、誤って曲玉(まがたま)を水中に落としてしまった由緒あるところだという。当時の人びとは、自然に水が湧いて出るところを尊敬したと伝えられ、今でも清冷な水が炎天にも涸れることな湧き出ている。

玉造町

 神社の中のスタジイの古木。大分歴史を感じさせる。